MEKHANES NAVISメーカネース・ナーヴィス

30 ただいま

第三十話 ただいま  救護艦へ着いてから、何度も止められた。  最初は、救命艇を降りるとき。  次は、救護区画へ向かう通路。  三度目は、医療班が持ってきた担架を跨ごうとしたところだった。  「歩けます」  「歩けることと、歩かせてよいことは別です」  軍医の言い方は、ピュリファイアに少し似ていた。  右肩の骨折。首と脇腹の裂傷。マナ焼け。失血。腹部深部の生体マナ場にも、星全体へ瘴気を流した反動が残っているらしい。  自分でも、重傷だとは思う。  さっきから床が少し揺れている。救護艦の振動ではなく、私の身体が揺れていた。  それでも、担架へ横になる気にはなれなかった。  「いおどが待ってる」  「居場所は変わりません」  「私が行くまで待ってるの」  「ですから、担架でお連れします」  「嫌」  軍医が眉間を押さえた。  隣では、ピュリファイアが左腕を固定されている。彼女も魔法と障壁を使いすぎ、治療対象になっていた。  止めてくれると思った。  ピュリファイアは軍医へ向き直る。  「歩行補助具を」  「あなたまで何を」  「担架へ固定すれば、途中で抜け出しますわ」  「患者を何だと思っているんです」  「カワイイスパイスお姉様です」  それで通じたのが、少し腹立たしい。  医療班が出した歩行補助具は、杖というより細い外骨格だった。腰と左脚へ固定し、体重を床へ逃がしてくれる。  右腕は吊られたまま。  首には止血材。  変身衣装も解除され、借りた患者衣の上へ毛布をかけられている。  星ひとつを相手にした魔女としては、あまり格好がつかない。  でも、帰るときの格好なんて、どうでもよかった。  ◆  救護区画の入口で、足が止まった。  白い照明。  消毒薬の匂い。  金属製の医療台。  エグジラの手術室と似ているものは、どこにでもある。  分かっている。  ここには拘束具がない。天井にペストマスクもいない。扉の横には、コーポ・アレスの救護章と、幻想公司の医療認証が並んでいる。  それでも、指先が冷えた。  息を吸う。  胸が浅いところで止まる。  「お姉様」  ピュリファイアが隣にいる。  支えようとはしなかった。ただ、私が見れば届く位置へ立っている。  「戻ります?」  「戻らない」  「では、ここで少し待ちますか」  「待たない」  「承知しました」  急かさない。  代わりに決めない。  私は左足を前へ出した。  外骨格が体重を受ける。  一歩。  白い照明の下へ入る。  医療台ではなく、その向こうを見る。  毛布。  小さな椅子。  膝の上に置かれた皿。  黑入鹿いおどが、入口を見ていた。  目が合う。  いおどは動かなかった。  私も、動けなかった。  頬の消毒跡は薄くなっている。首元にはまだ包帯があり、髪は誰かが梳かしたらしいけれど、いつもの流し方ではない。  生きている。  分かっていた。  通信でも見た。生命反応も読んだ。ルノフェットから救出済みだと聞き、ピュリファイアにも何度も確認した。  それでも、目の前にいることは全部と違った。  周囲にも帰ってきた人たちはいる。今だけは、いおどしか見えなかった。  「お師匠様」  いおどの声が震えた。  皿が膝から落ちる。  冷めたパンケーキが床へ滑った。  いおどが走ってくる。  「待って、右は」  言い終わる前に、腹へ飛び込まれた。  痛い。  首も、肩も、脇腹も、一度に痛んだ。外骨格がなければ、そのまま後ろへ倒れていたと思う。  それでも、左腕で抱き締める。  小さい身体。  温かい。  背中が上下している。  「お師匠様」  「うん」  「お師匠様」  「いるよ」  いおどが患者衣へ顔を押しつける。  泣いている。  声を堪えようとして、余計に呼吸が乱れていた。  「遅い」  「ごめん」  「遅いです」  「うん」  「帰ってこないかと思った」  左手で、髪を撫でる。  柔らかな髪。  私が朝に直すはずだった寝癖。  「帰ってきたよ」  言った途端、いおどの手が患者衣を強く掴んだ。  「どうして一人で行ったんですか」  「それは」  「星一つなんでしょ」  「そうね」  「一人で行っちゃ駄目です」  「はい」  「わたしを助けるなら、わたしにも相談してください」  顔を上げる。  涙と鼻水でひどい顔になっていた。  六歳の子供に、救出作戦の相談をするわけにはいかない。  そう言おうとして、やめる。  相談できたかどうかではない。  私は、いおどが何を望むか知ろうとしなかった。  さらわれたから助ける。  私が保護者だから決める。  自分だけで終わらせればいい。  ノワルミアとは違う。  でも、いおどの言葉を待たずに、勝手に物語を決めたところはあった。  「ごめんなさい」  今度は、きちんと言う。  「いおどを助けることしか考えてなかった。そのあとのことも、私が帰らなかったときのことも、考えたくなくて考えなかった」  「考えてください」  「うん」  「わたしは、お師匠様にも助かってほしいです」  胸の奥へ、言葉が入る。  いおどを助けるまでは、誰も来ないで。  その条件を決めたのは私だった。  自分が助けられる側に残ることを、最後まで計画に入れなかった。  「次からは」  言って、困る。  次があってはいけない。  また弟子をさらわれ、星へ単騎で向かうようなことは。  「次はないようにする」  「絶対?」  「できるだけ」  「絶対」  「……努力します」  いおどの眉が寄る。  ピュリファイアが横から口を挟んだ。  「わたくしが監督いたします」  「ピュリファイアお姉ちゃんも無茶したって聞きました」  「あら」  「白い火で、天井から入ったって」  「必要な救援でしたので」  「二人ともです」  叱られる側が増えた。  ピュリファイアは少しだけ目を逸らす。  いおどは私から身体を離し、今度は彼女の固定された左腕を見る。  「痛い?」  「嗜む程度には」  「お師匠様は?」  「すごく痛い」  「正直ですわね」  「ピュリも正直に言いなさい」  「少々痛みます」  いおどが二人を見比べる。  泣きながら、怒っている。  怒りながら、安心しようとしている。  私は左手を差し出す。  ピュリファイアも、動くほうの手を出した。  いおどが両方を掴む。  それだけで済むと思った。  ピュリファイアが一歩近づき、いおどごと私を抱き寄せた。  「ちょっと、傷」  「存じております」  「痛い」  「わたくしもです」  白い外套ではなく、患者衣と包帯の匂いがする。  いおどの髪からは、甘い焼き菓子の匂い。  三年前。  手術台から戻ったとき、私は一人だった。  助け出されたあとの記憶は途切れ途切れで、目を開けても、誰かを信じる余裕はなかった。  ピュリファイアが探していたことも知らなかった。  帰る場所は、まだなかった。  今は違う。  痛いと言える。  遅いと責められる。  抱き締められて、離してほしいと言いながら、本当には離れてほしくない。  「ただいま」  いおどの肩へ顔を寄せる。  返事は、すぐには来なかった。  小さな手が、私の左手を握り直す。  「おかえりなさい」  ピュリファイアの腕にも、少し力が入った。  ◆  再会のあと、私は医療区画へ収容された。  今度は担架を拒まなかった。  というより、いおどとピュリファイアに左右から見張られ、拒む余地がなかった。  検査。止血。骨の固定。生体マナ場の安定処置。  幻想公司の医師は、私が魔法を使えなくなったかではなく、眠れるか、食べられるか、拘束具の音を聞いたときに呼吸できるかを調べた。  前線へ戻れる時期を訊く者はいない。  魔女は、力を失った魔法少女ではない。  戦えるまま、戦場から後ろへ下がった者だ。  強いから戻す、とはならない。  強いまま敵に利用されうるからこそ、前へ出さない。  そのことを、私は三年前から知っている。  今回は、自分がまだ戦えることも知った。  両方を知った上で。  今は、眠る。  いおどがベッド脇の椅子へ座り、冷めたパンケーキの代わりに、医療区画でもらった焼き菓子を食べている。  「五枚は?」  「帰ってから」  「忘れてなかった」  「約束したからね」  「六枚でもいいよ」  「増やさない」  ピュリファイアが窓際で端末を操作している。  戦死者。  救助者。  行方不明者。  戦争の終わりは、数字になって届き続ける。  全部が片づく日は、まだ遠い。  それでも、いおどの咀嚼する音を聞いているうちに、瞼が重くなった。  久しぶりに、眠ってもいいと思えた。  今回の戦いで、多くの因縁が片付いた。  オブリビオンは滅びたし、スキップ博士も死んだ。  仮に生きていたとしても、あの様子だともう私に用はなさそうだ。  心に刺さってた棘が抜けた、って言っちゃえばいいのかな。  目を閉じる前に、二人を見る。  いる。  次に目を開けても、たぶんいる。  救護艦の機関音が、遠い波のように続いていた。警報ではない音を聞きながら、私は目を閉じた。  ◆  三か月後。  夢船ピュアコットンの空には、薄桃色の瘴気が戻っていた。  襲撃で開いた天井は塞がれ、焦げた床も張り替えられている。新しい資材だけ少し色が違い、直した場所が朝の光の中でよく分かった。  食堂から、甘い匂いがする。  警報は鳴っていない。  誰かが皿を落とす音と、いおどの「わたしじゃないよ」という声が聞こえた。  いつもの朝が、始まっていた。