29 シキ
第二十九話 シキ
救命艇へ乗ったあとも、|此希《シキ》は座らなかった。
壁際の手すりを握り、閉じた扉を見ている。床へ置いてきたリボルバーを探しているのか、もう戻れないエグジラを見ようとしているのかは分からない。
艇内には四十人近く詰め込まれていた。座席は負傷者へ譲られ、通路にも簡易担架が並んでいる。コーポ・アレスの兵士とオブリビオンの実験体が、同じ酸素供給管を回して使っていた。
発進の衝撃が来る。
此希の膝が揺れた。
ボクは咄嗟に腕を伸ばしたが、彼女は自分で手すりを掴み直した。
「平気?」
「歩行機能に問題はない」
「そういうのじゃなくて」
返事はない。
船窓の外で、涜船エグジラが崩れていく。都市の光が帯状に消え、外郭を覆っていた生体装甲が大陸ほどの大きさで剥がれていた。
此希は見なかった。
まだ、閉じた扉だけを見ている。
やがて救命艇がアレス軍の救護艦へ接岸し、乗降口が開いた。医療班が担架を運び出し、歩ける者を色分けされた誘導線へ振り分けていく。
此希の首輪を見た兵士が、端末へ手を伸ばした。
彼女の肩が強張る。
「待って」
ボクは二人の間へ手を入れた。
「制御線は切れてる。首輪は生命維持と混線していた。外すなら検査してから」
「了解。では敵性投降者として隔離区画へ」
兵士は、それ以上触れなかった。
此希へ向き直り、空の両手を見せる。
「武器は所持しているか」
「所持していない」
「当艦へ攻撃する意思は」
此希の口が止まった。
攻撃能力ではない。
命令でもない。
意思を聞かれている。
「……ない」
少し遅れて答える。
兵士は端末へ記録し、通路を示した。
「投降を受理する。治療と事情聴取を行う。歩けるなら、青い線に沿って進んでくれ」
此希は青い線を見る。
ボクを見る。
「命令か?」
「お願いだと思うよ」
「違いが分からない」
「断ったとき、撃たれないほう」
案内の兵士が少し困った顔をした。
「断っても撃たない。ただ、ここは搬送路なので移動してもらえると助かる」
此希はしばらく考えてから、青い線へ足を乗せた。
◆
事情聴取は、尋問室ではなく診察室で行われた。
白い壁。固定具のない椅子。机の上には端末と、蓋を開けていない水が二本。
此希は出口に近い椅子を選んだ。ボクは壁際へ立ち、軍医が首輪を走査するのを見ていた。
聴取官は、さっきまでエグジラ外郭で艦隊を指揮していた司令本人だった。救難信号を発した潜入員と、彼が救った射撃個体を自分で確認したいらしい。装甲服の上半分だけを脱ぎ、煤のついたシャツのまま向かいへ座る。
「形式的な確認から始める。答えられないものは、答えなくていい」
此希の瞳がわずかに動いた。
聴取官は端末を開く。
「所属」
「オブリビオン・インダストリーズ東区画防衛隊。中央命令系直属射撃個体」
「階級」
「特務戦闘資産。管理等級、第二種」
「任務」
「侵入個体の排除。脱走実験体の処分。中枢命令への服従」
答えは速い。
言葉の間に迷いがない。
「出身地」
「記録なし」
「年齢」
「稼働年数のみ記録。身体年齢との一致は保証されない」
「家族は」
此希が黙った。
聴取官は急かさない。
軍医も走査器を止めた。
「分からない」
やっと出た声は、任務を答えたときより小さかった。
「好きな食べ物」
此希が顔を上げる。
顔を上げたうえで目線がずれて、水の入ったペットボトルへ落ちた。
いやな質問が来た、という具合。
「聴取項目に必要か?」
「私が知りたい」
「分からない」
「嫌いなものは」
また、沈黙。
命令されたことなら答えられる。
身体へ与えられた機能も、自分を管理していた規格も。
でも、彼女自身について訊くたび、言葉がなくなる。
此希の手が膝の上で握られた。
「アタシは」
その先が続かない。
聴取官が端末を閉じる。
「今日はここまでにしよう」
「回答が、終わっていない」
「終わらせる必要はない」
「命令を」
此希が言いかけて、口を閉じた。
次の命令を。
西第七培養区で助けた人と、同じ言葉だった。
ボクは壁から背を離す。
「今すぐ全部を答えなくていいよ」
此希がこちらを見る。
「思い出さなくてもいい。作ってもいい。好きなものなんて、食べてから決めればいいし」
「過去がなければ、アタシは何だ」
「今ここにいる人」
「それだけか?」
「今は、それだけで十分じゃない?」
エグジラの中でも、同じようなことを言った。
彼女はあのとき、納得しなかった。
今も納得した顔ではない。
けれど、反論もしなかった。
聴取官が新しい記録欄を開く。
「最後に、呼称を確認したい。敵側の記録には、琴織此希とある。これはあなたの名前で間違いないか」
此希は端末に表示された文字を見る。
|琴織《コトオリ》。
|此希《シキ》。
記録に残っていた名前。
彼女自身は、まだその記憶を持っていない。
「分からない」
正直な答えだった。
「では、何と呼べばいい」
聴取官は選択肢を出さない。
識別番号も、射撃個体も、仮称も。
此希は長く黙った。
誰も次の言葉を渡さなかった。
やがて、彼女が自分の胸元へ手を当てる。何も表示しなくなった首輪の下で、指が一度だけ布を掴んだ。
「シキ」
掠れた声。
「アタシは、シキでいい」
少なくとも、記録を復唱した声には聞こえなかった。
今ここにいる彼女が、その名前を選んだのだとボクは思った。
聴取官は端末へ入力する。
「了解した。シキ」
ただそれだけ。
所属も、階級もつけない。
彼女を呼ぶための名前だけが、投降者記録の最初へ置かれた。
シキは、自分の名前が入力されるところを最後まで見ていた。
◆
診察室を出ると、救護艦の通路は負傷者で埋まっていた。
アレス軍の兵士、魔法少女、生体兵器、培養衣の子供。敵味方を示す色は外され、治療の優先度だけが担架へ表示されている。
ボクの端末へ、任務終了の確認が届いた。
“潜入員ルノフェット・ラビットイヤー、帰還を確認”
“包絡弾残数、ゼロ”
“回収対象、敵性実験体一名”
最後の項目へ、補足欄が開く。
名前を入力することもできた。
やめておく。
彼女が自分で選んだものを、ボクの戦果みたいに報告書へ載せる必要はない。
補足なしで送信する。
通路の向こうで、シキが医療班に呼ばれた。
今度は青い線を確認せず、自分から歩き出す。
その先にある救護区画では、小さな男の子が毛布へ包まり、何度も入口を見ていた。
膝の上には、冷めたパンケーキの皿。
誰かが帰ってくるまで、食べずに待つつもりらしい。