12 お師匠様
第十二話 お師匠様
「……お師匠様?」
隔壁の向こうから、いおどの声がした。
間違えない。
偽物の心拍は作れても、パンケーキたった三枚で少し期待してしまう声までは作れない。
「うん。私」
返事をした途端、向こう側で管と金具が激しく鳴った。
「お師匠様!」
「いるよ。すぐ開けるから、動かないで」
「でも、これ、外れなくて」
「分かってる。大丈夫」
大丈夫。
何があるか、まだ見えていない。
隔壁を開いた瞬間、生命維持装置が止まるかもしれない。いおどへ爆薬が取りつけられているかもしれないし、声だけを別の場所から流している可能性だって残っている。
それでも、いおどへは大丈夫と言う。
魔法少女だった頃と同じだ。
怖いときほど、こちらが先に笑う。
違うのは、今の私が本当に一人ではないことだった。
「少し離れられる?」
「足が動かない」
「じゃあ、そのまま。目を閉じて」
「はい」
返事が早い。
たぶん、本当に目を閉じている。
私は生体膜へ両手を当て、薄桃色の瘴気を染み込ませた。
膜は七層。
外側の三層が物理防御。二層がマナ遮蔽。残りは内部の気圧と培養環境を保つためのもの。
全部を腐らせれば簡単に開く。
中にいる者も、同じ空気を吸うことになる。
壊すのは外側だけ。
細胞同士を固く結びつけている接着器官へ死を流す。膜の表面が白く濁り、張力を失った。
大鎌の刃先を入れる。
力で切らず、位相を浅く裂く。一層目を開き、二層目へ。マナ遮蔽へ触れると刃が揺らいだ。
反発が手首へ返ってくる。
出力を上げれば破れる。
やらない。
内側へ衝撃が抜ける。
刃を消し、指先へマナを集め直す。遮蔽の継ぎ目を探り、縫い糸を一本ずつ抜くように結合を外した。
時間がかかる。
背後の搬送路で、警報が鳴り始めた。
“侵入個体、収容区画へ到達”
“管理群、覚醒”
床の下を、重い足音が走る。
「お師匠様」
「なに?」
「後ろ、来てる」
いおどにも聞こえたらしい。
「うん」
「戦うの?」
「なるべく戦わない」
生体膜の五層目が開いた。
向こう側の空気が細く漏れる。薬品と血の匂い。その中に、いおどの匂いがあった。
あと二層。
搬送路の壁が割れる。
振り返る。
床からせり上がってきたのは、人の上半身を持つ大きな生体兵器だった。
下半身は無数の脚と管が絡み合い、エグジラの床へ直接接続されている。顔には縦長の観測眼が三つ。
胸部に、管理個体の識別紋。
左右の腕へ、幼いサキュバスが一人ずつ繋がれていた。
子供に見える。
見えるだけかもしれない。
どちらも眠ったまま、細い角の間へマナを集めている。管理個体は二人を動力にしていた。
『対象、停止』
管理個体の口が開く。
声は床と天井から同時に響いた。
『停止しなければ、収容資産を破棄する』
幼体の首輪が赤く光る。
「そう」
私は隔壁へ背中を向けた。
「やってみれば」
管理個体の観測眼が細くなる。
もちろん、やらせる気はない。
幼体の首輪から、処分信号が身体へ入る。
それより先に、瘴気を床へ落とした。
信号は管理個体から腕を通り、首輪へ届いている。生体組織だから見える。殺す場所は、二人の身体ではなく、その途中にある伝達節。
薄桃色の霧が床を走り、管理個体の下半身へ入った。
左右の腕へ続く神経だけが黒く枯れる。
首輪の赤い光が消えた。
管理個体は躊躇しなかった。
幼体を腕から切り離す。
落ちる身体を避けるため、私は前へ出た。
同時に管理個体の胸が開く。
中に実体砲。
幼体を受け止めれば、撃たれる。
受け止めなければ、子供が床へ落ちる。
「本当に」
腹が立つ。
大鎌ではなく障壁を出す。
薄桃色の面を斜めに二枚。落ちてくる幼体を一枚目で受け、滑り台のように二枚目へ流す。
砲声。
管理個体の胸から重い実体弾が放たれた。
障壁では止められない。
私は横へ跳ぶ。
弾丸が一枚目を砕いた。支えを失った幼体の身体を、二枚目の障壁ごと腕へ引き寄せる。
幼体を肩で受けた。
軽い。
六歳のいおどより、ずっと軽かった。
栄養を吸われている。
もう一人は床へ落ちる前に、残った障壁を広げて受けた。
管理個体が二発目を装填する。
両手が塞がっている。
大鎌は出せない。
足元へマナを集め、蹴りの軌道だけを胸の砲身へ飛ばす。
装填中の砲口が上へずれる。
二発目は天井へ撃ち込まれた。
頭上の管が破裂し、培養液が雨のように降る。
管理個体へ接続された脚が動いた。
こちらへ来る。
幼体を抱えたままでは避けきれない。
右の子を床へ寝かせる。左の子も隣へ。
「少し待ってて」
眠った二人へ障壁を被せる。
管理個体の腕が迫った。
枝分かれした指が、捕獲用の触手となって迫る。
私は一歩だけ前へ入る。
近すぎれば、長い腕は曲がれない。
肩の付け根へ手を当て、マナ打撃を入れた。復相衝撃が装甲の内側で開き、関節を支える骨が砕ける。
腕が頭上を通り過ぎた。
もう片方が横から来る。
大鎌を短く形成する。
腕ではなく、床へ繋がる脚を切った。
一本。
まだ倒れない。
二本目へ刃を返す。
管理個体の砲口が下がった。
狙いは私ではない。
障壁の中で眠る幼体へ。
「させない」
大鎌を消す。
砲口へ右手を突っ込んだ。
装填機構が指を挟む。痛みが腕まで走り、硬い金属が手の甲へ食い込んだ。
それでも、瘴気を流せる。
砲弾ではなく、砲身を育てている細胞を殺す。
胸部の内側から黒い亀裂が走った。
管理個体が撃つ。
砲弾は発射されず、胸の中で爆発した。
衝撃が腕を押し戻す。
身体が飛び、幼体を覆う障壁の手前へ落ちた。
右手が動かない。
見る。
指はある。
折れてはいない。皮膚が裂け、血は出ているけれど、それだけだった。
管理個体は胸から煙を上げている。
それでも死んでいない。
床へ残った脚から栄養を吸い、破損した砲身を作り直そうとしていた。
「もう、いいよ」
立ち上がる。
相手へ言ったのか。
自分へ言ったのか。
分からない。
管理個体の中には、命令以外の反応が見つからない。幼体を守ろうとする心拍も、自分が壊れることへの恐怖もない。
あるのは、増殖。
管理。
処分。
同じ動作を続けるための生命だけ。
瘴気を胸の亀裂へ入れる。
今度は選ばない。
管理個体の全身が黒く乾き、床へ繋がる脚から順に崩れた。
最後まで観測眼は私を追っていた。
光が消える。
静かになった。
◆
幼体二人の呼吸を確認する。
生きている。
首輪は残っていたが、処分信号を送る管は死んでいる。外すには設備が必要だ。今ここで引き抜けば、神経ごと傷つける。
壁際へ寝かせ、割れた培養管から保温膜を引き出して身体へかけた。
「あとで戻るから」
模倣体にも、同じことを言った。
約束ばかり増えていく。
守るには、生きて帰らないといけない。
隔壁へ戻る。
戦闘中も、いおどの心拍は聞こえていた。
砲声のたびに速くなり、私が倒れたときには呼吸まで止まった。
「ごめん。待たせた」
「お師匠様、怪我してる?」
「ちょっとだけ」
「ちょっとの音じゃなかった」
困った。
音に関しては誤魔化せない。
「帰ったらピュリに治してもらう」
「わたしも手伝う」
「うん」
最後の二層へ触れる。
内側は生命維持環境と繋がっている。
いおどの首には、誘拐されたときに刺された管が残っているはずだ。隔壁を先に開けば、装置が異常を検知するかもしれない。
瘴気を細く伸ばす。
膜を越え、いおどの身体へは触れず、その周囲を探る。
首。
細い管が二本。
一つは鎮静剤。
もう一つは生命維持と処分を兼ねた管。
背中と手首にも拘束。
足首は金属具で台へ固定されている。
処分装置は、いおどの心拍を監視していた。
外部から外されるか、隔壁が破られれば、薬剤を注入する。
管だけを殺すのは危険だ。
中に残った薬剤が、圧力で押し出されるかもしれない。
先に薬剤を殺す。
液体の中へ瘴気を入れ、いおどの身体へ作用する成分だけを分解する。栄養液と鎮静剤まで止めない。
次に、注入を命じる細胞。
最後に監視神経。
一つずつ反応が消える。
いおどの心拍だけが残った。
「今から開けるよ」
「はい」
マナ遮蔽の継ぎ目を外す。
六層目が薄くなり、内側が見えた。
小さな部屋。
中央の台へ、いおどが仰向けに固定されている。
巫女服は汚れ、片方の袖が破れていた。黒い髪が汗で額へ貼りついている。
目は閉じたまま。
言いつけを守っている。
「もう開けていいよ」
いおどが目を開く。
私を見る。
唇が震えた。
泣くと思った。
けれど、いおどは先に私の右手を見た。
「血」
「これくらい平気」
「平気じゃない」
泣きそうな声で怒られた。
「そうだね。ごめん」
七層目を開く。
部屋の空気がこちらへ流れた。
中へ入る。
走り寄りたい。
抱きしめたい。
まだ駄目だ。
手首の拘束具へ触れる。
金属。
手術台。
光。
自分の腕が動かなくなる感覚が、一瞬だけ戻った。
息を吐く。
これは私の拘束具ではない。
いおどを縛っている。
だから外す。
右手が使いにくいので、左手で大鎌を形成する。刃を針ほど細くし、拘束具と台の隙間へ入れた。
金属を切れば、いおどの手首も傷つける。
留め具の位相だけを裂く。
まずは、手首を自由にする。
いおどはすぐに腕を伸ばそうとした。
「まだ」
「でも」
「脚も外してから」
反対の手首。
両足首。
背中へ入っていた細い固定針。
最後に、首の管。
根元を瘴気で閉じ、皮膚の外側だけを切る。
「っ!」
ゆっくり抜いた。
小さな傷から血が滲む。
腰の小物入れから、使い切りの治癒アンプルを取り出す。スプーンの救急箱から持ち出したものだ。先端を傷へ当てると、青い薬液が泡立ち、出血を止めた。
「終わり」
いおどが起き上がる。
そのまま私の胸へ飛び込んだ。
受け止める。
腹の傷が痛んだ。
どうでもよかった。
小さな腕が背中へ回る。
強い。
六歳の力とは思えないくらい、強く服を掴んでいる。
私も、血のついた右手を避け、左腕で抱き返した。急いでいる。追手も来る。それでも今だけは、無事を確かめるために時間を使ってよかった。
「お師匠様」
「うん」
「お師匠様」
「いるよ」
短い受け答え。
正直、私のほうが泣きそうだった。
「ほんもの?」
「本物」
「いなくならない?」
答えようとして、喉が詰まった。
ここから先、私はノワルミアのところへ行く。
いおどを連れてはいけない。
また離れる。
それでも、今は。
「いなくならない」
背中を撫でる。
嘘にはしない。
どれだけ時間がかかっても、帰る。
いおどが泣き始めた。
声を殺そうとして、うまくできていない。私の胸へ顔を押しつけ、何度も息を吸っている。
私も目を閉じる。
髪の匂い。
体温。
不規則な心拍。
偽物にはなかったもの。
「怖かったね」
「……うん」
「ごめんね」
上擦った声で、いおどが答える。
「お師匠様のせいじゃない」
「もっと早く来たかった」
「来てくれた」
いおどが顔を上げる。
涙で濡れている。
「だから、いい」
良くはない。
さらわれて、拘束されて、殺すための管を首へ入れられた。
それでも。
いおどがそう言うなら、今だけは受け取る。
「パンケーキ」
「……食べたい」
「三枚?」
「四枚」
「増えた」
「怖かったぶん」
少し笑った。
私も笑う。
「交渉上手になったね」
◆
長くは留まれなかった。
薄桃色の瘴気が、培養区画の外で途切れ始めている。止めた監視網も別系統へ切り替わり、通路の照明が赤へ戻っていた。
いおどを抱き上げ、収容室から出る。
歩けると言ったが、足首には拘束具の痕が残っている。
壁際で眠る幼体二人を見つけると、いおどが身体を固くした。
「この子たち」
「生きてる。連れていくよ」
「わたし、歩く」
腕の中から降りようとする。
「足、痛いでしょ」
「お師匠様も痛い」
言い返せない。
いおどを床へ降ろす。少しふらついたが、自分で立った。
保温膜を広げ、幼体二人を一人ずつ包む。
どう運ぶか。
一人を私が抱え、もう一人を障壁へ乗せる。いおども障壁へ乗せたほうが安全だ。
考えていると、隠し搬送路の奥から足音が来た。
軽く、速い。
金属が床を蹴り、短い噴射音が続く。
いおどを背中へ庇う。
右手はまだ動きにくい。
左手へ大鎌を出す。
曲がり角から、黒い潜入服が飛び出した。
うさみみ。
片方の靴底がなく、右肩の装甲は焼け、両腕には黒いアームブレードがついている。
少年に見える人物は、私の大鎌を見て急停止した。
「待って、味方!」
彼は両手を上げる。
アームブレード装備だ。あまり安心できる姿ではない。
いおどが私の後ろから顔を出した。
「あ」
潜入兵も、いおどを見る。
怪我だらけの顔が、はっきり緩んだ。
「黑入鹿いおど?」
「はい」
「良かった。本物だ」
私を見る。
「カワイイスパイス。コーポ・アレス戦略偵察部、ルノフェット・ラビットイヤー。誘拐前からエグジラへ潜入してる」
ルノフェット。
会議資料で名前だけは見た。
コーポ・アレスが先に動かしていた密偵、だっけ?
「助けに来てくれたの?」
「そのつもりだったんだけど」
彼は、私といおどを交互に見る。
「もう助けてるね」
息を吐いた。
味方。
ようやく会えた。
「他にも子供がいる」
「途中で反応を拾った。西の培養槽にも一人。ここに二人。運搬装備を取ってくる」
「西の子には、あとで必ず戻るって言った」
「じゃあ、その約束はボクが引き受ける。四人分の運搬装備を持ってくるよ」
「お願い」
ルノフェットは頷いたものの、すぐには動かなかった。
うさみみが後ろへ向く。
遠くの振動を聞いている。
表情から軽さが消えた。
「先に、悪い知らせ」
「何?」
「ここへ来るまでに使った脱出路が、指揮生体核に封鎖された」
背後で、低い音が響いた。
隠し搬送路の隔壁が、一枚ずつ閉じ始める。
ルノフェットは腰の後ろへ手を回した。
残された二発の包絡弾を、指で確かめる。
「外へ出るには、あれを潰さないと駄目みたい」