02 三年後の食卓
第二話 三年後の食卓
「お師匠様。ごはん、まだ?」
鏡越しに、いおどを見る。
寝癖。
片方だけ裏返ったうさぎのスリッパ。
寝間着の袖から、小さな手が半分だけ出ていた。
「もうできてる。顔、洗ってきなさい」
「洗ったよ」
「目やに」
「……」
いおどは目元をこする。
取れていない。
仕方がないので、濡らした布で拭いてやる。
「つめたい」
「顔を洗ったなら、これくらい冷たいはずなんだけど」
「洗った」
「どこを?」
「手」
「顔を洗ってきなさい」
はあい、と返事。
いおどは洗面所へ走っていった。
足音。
続いて、パシャパシャと水の音。
何かを落とした音。あわただしい。
私は鏡へ向き直る。
ショッキングピンクの長い髪。
十九歳。
昔より伸びた。
瞳は、変わらない。
三年前。
手術台の上で、最後に見た自分の目。
鏡の中から、まだこちらを見ている。
「お師匠様ー!」
びくりと肩が跳ねた。
「タオルない!」
「昨日使った場所にあるでしょ!」
「ないよ!」
「扉の裏!」
「あった!」
いおどの声が遠ざかる。
息を吐く。
鏡を伏せた。
◆
朝食は、りんごを入れたパンケーキ。
小さく切って煮た果肉を、生地へ混ぜてある。いおどは苦いものが苦手だが、甘ければ大抵なんでも食べる。
ただし、野菜を細かく刻んで混ぜると見抜く。
妙なところで鼻が利く。
「いただきます」
「いただきます!」
いおどは両手を合わせると、すぐにフォークを持って一枚目へ突き刺した。
「熱いから気をつけて」
「ふーってする」
「そうして」
言い終わる前に口へ入れ、身体を震わせた。熱かったらしい。
「んーっ!」
「言ったでしょ」
「でも、おいしい」
「それは良かった」
水を渡すと、いおどは一口飲んでから、またパンケーキへ挑んだ。今度は、きちんと息を吹きかけている。
六歳、か。
拾った頃より、ずいぶん大きくなった。
最初は食事を残して、あとで食べると言い張っていた。次の日にも食べ物があると、なかなか信じてくれなかった。
今では、三枚目を狙っている。
「二枚まで」
「まだ何も言ってないよ」
「目が言ってる」
「わたしの目、しゃべるの?」
「とても饒舌」
いおどは自分の目元を押さえた。隠せばいいと思ったらしい。空いている手で三枚目へフォークを伸ばしたので、皿ごと遠ざける。
「あっ」
「お昼も食べるんだから」
「育ち盛りなのに」
「どこで覚えたの、そんな言葉」
「ピュリファイアお姉ちゃん」
後ろで、扉が開いた。
金属部品の擦れる、小さな音。
私は椅子を蹴った。
とっさに、振り向く。
右手に、桃色の刃が伸びている。
扉の前に、誰かいるな。
銀髪の少女が、紙袋を抱えたまま止まっていた。
「……おはようございます」
ピュリファイア。
私より一つ年下だ。
長身で、朝から背筋が伸びている。
右手の刃を消す。
「ノック」
「三度いたしましたわ」
「聞こえなかった」
「ええ。ですから、管理権限で開けました」
紙袋をテーブルへ置く。
中から、牛乳と卵。それから、りんご。
「防犯設備の点検も必要ですわね。あなた、侵入者へ刃を向けるまで気づいておりませんでしたもの」
「気づいたから向けたんでしょ」
「扉の前まで許した時点で落第です」
言い返せない。
というか。
今のは、侵入へ反応したわけじゃない。
金属音。
手術台の拘束具と、よく似た音。
ピュリファイアは私の右手を見る。
何も言わない。
代わりに、いおどの皿を見た。
「まあ。おいしそうですこと」
「ピュリファイアお姉ちゃんも食べる?」
「よろしいのですか?」
「わたしの三枚目をあげる」
勝手に所有権を主張された。
「いおどのじゃない」
「でも、食べたかった」
「でしたら、半分ずつにいたしましょう」
ピュリファイアが椅子を引く。
いおどの隣。
私が使おうとしていた椅子だった。
「自分で焼いて」
「あら。お姉様の手料理をいただける貴重な機会ですのに」
「材料を持ってきたんだから、作れるでしょ」
「わたくしのパンケーキは、なぜか時折爆発します」
「なぜ?」
「わたくしにも分かりません」
分からないなら、台所には立たせられない。
生地は残っている。
仕方なく、もう一枚焼く。
背後から、いおどの笑い声。
ピュリファイアが何か見せているらしい。
振り向かない。
フライパンへ油を引く。
生地を落とす。
丸く広がる。
甘い匂い。
三年前。
死臭も、甘かった。
火を弱める。
今は、りんごの匂いだ。
◆
「本日の予定です」
食後。
ピュリファイアが端末をテーブルへ投影する。
なんと、十七件もある。
朝から見る数字じゃない。
「増えてない?」
「昨夜、二名運び込まれました。幻想公司所属が一名。外部契約者が一名」
「状態は?」
「一名は安定。もう一名は、変身解除ができておりません」
指で記録を送る。
医療区画。
十五歳。
肩から腕にかけて、魔物組織が癒着。
映像は開かない。
文字だけで十分だった。
「担当医は?」
「ウェルナー先生。精神処置は、わたくしが」
「私も行く」
「経過観察中です」
「だから行くの」
ピュリファイアは黙った。
端末の光が、青い瞳へ映っている。
「変身解除の補助なら、私のほうが詳しい」
「ええ」
「魔物組織の癒着も」
「ええ」
「何?」
「何も」
何か言いたそうな顔。
こういうときのピュリファイアは、面倒だ。
人の心を見透かす訓練を受けている。
そのくせ。
見えたものを、全部口にはしない。
「わたくしは、午後から幻想公司との折衝があります」
「例の補償?」
「はい。負傷を業務上の事故ではなく、本人の資質不足として処理したいようです」
「相変わらずね」
「書類は揃えております。拒否される理由はございません」
「拒否してきたら?」
「社屋の正面で、記者会見を」
笑顔。
本当にやる顔だった。
「ほどほどにね」
「お姉様がそれを仰いますか?」
「私はもう、ほどほどに生きてる」
口にして。
少し、間が空いた。
ピュリファイアは端末へ視線を戻す。
「では、医療区画は十一時から。昼食後、保護者面談が二件。夕刻に会計監査」
「会計監査?」
「先月の食費が予算を超過しております」
いおどが、ぴたりと動きを止めた。
テーブルの下。
こっそり菓子箱へ伸びていた手が、戻る。
「成長期ですので」
「さっき二枚までって言ったよね?」
「わたし、何も言ってない」
「目が言ってる」
ピュリファイアが口元を隠す。
笑った。
「何?」
「いえ。良い朝だと思いまして」
窓の外。
薄桃色の空。
夢船ピュアコットンの上空には、雲の代わりに私の瘴気が漂っている。
薄く。
広く。
呼吸する者を病から遠ざけるような、死の能力を反転させた霧。
三年前の私は、こんな使い方を知らなかった。
◆
医療区画は、白い。
床。
壁。
天井。
全部。
清潔であることを示すには、分かりやすい色だ。
私は嫌いだった。
「お師匠様」
袖を引かれる。
いおどが、私を見上げていた。
「どうしたの?」
「怖い?」
「別に」
「手、ぎゅってしてる」
見る。
右手。
爪が掌へ食い込んでいた。
開く。
赤い跡。
「寒いだけ」
「ここ、あったかいよ」
「……そうね」
誤魔化せなかった。
いおどは私の右手を取った。
自分の両手で包む。
小さい。
温かい。
「わたしも行く」
「診察室には入れないよ」
「前まで」
「待合室で待ってて」
「前まで」
譲らない。
仕方なく、一緒に歩く。
診察室の前。
看護用端末が浮かんでいる。
銀色の腕。
先端には注射器。
液体を送る音。
足が止まった。
白い照明。
金属の拘束具。
ペストマスク。
少しばかり、続きを書き換えるだけだ。
「お師匠様」
いおどの手へ、力が入る。
ここは、あそこじゃない。
私は十九歳。
ここはピュアコットン。
扉の向こうにいるのは、助けを待っている女の子。
「大丈夫」
いおどへ言った。
自分へ言ったのかもしれない。
「お仕事、してくる」
「うん」
手を離す。
一歩。
診察室へ入る。
◆
少女は、眠っていた。
左腕を覆う、黒い鱗。
肩口から生えた二本の角。
変身衣装と肉体の境界が、曖昧になっている。
私はベッドの脇へ座った。
「聞こえる?」
少女の瞼が動く。
「……誰」
「カワイイスパイス。ここの支部長」
「魔法、少女?」
壁際。
彼女が憧れたという、私の古いポスターが貼られている。
死の魔法少女。
大鎌を持って笑う、十六歳の私。
「元、ね」
「どうして」
少女の瞳が、私の髪へ向く。
それから、身体。
何を聞きたいか。
分かる。
どうして、元なのか。
どうして、魔物の気配がするのか。
どうして、そんな身体で平気な顔をしているのか。
「色々あったから」
答えになっていない。
でも、今はそれでいい。
少女の右手が、シーツを掴む。
「戻れる?」
「分からない」
嘘はつかない。
「全部、元通りになるかは分からない。でも、痛みは取れる。眠れるようにもなる。魔法を使わなくても、生きていける」
「戦えない」
「戦わなくていい」
「でも」
「戦わなくていいの」
強く言いすぎた。
少女が目を見開く。
息を吐く。
「戦えることと、戦うことは別だから」
自分の右手を見る。
望めば、今でも刃を作れる。
大鎌も。
三年前より、ずっと強い。
それでも。
「私は、もう戦わない」
少女がこちらを見る。
「怖いから?」
胸の奥へ、細い針が刺さる。
「そうかもね」
否定はしない。
「でも、それだけじゃない。戦う以外にも、やれることがあるって知ったから」
少女の鱗へ触れる。
冷たい。
死のマナを、薄く流す。
殺すためじゃない。
少女の肉体を蝕む魔物組織。
その異常な増殖だけを、少しずつ死なせる。
黒い鱗の隙間から、元の肌が見えた。
少女が息を呑む。
「ね?」
戦わなくても。
私の力は、誰かを助けられる。
◆
処置を終えた頃には、昼を過ぎていた。
待合室。
いおどは椅子を二つ使い、丸くなって眠っている。
膝には、読みかけの絵本。
口元に、パンくず。
誰かから貰ったらしい。
起こさないよう、そっと抱き上げる。
また少し、体重が増えたかな。
やわらかい頬が、私の肩へ触れる。
「お師匠様」
寝言。むにゃむにゃと。
「いるよ」
背中を撫で、医療区画を出る。
今日も、戦わずに済んだ。
明日も。
その次も。
この子が大きくなるまで。
そうやって生きていければいい。
不意に、警報が鳴った。
いおどが驚いて目を覚まし、頭が肩から離れた。
赤い光。
施設の全隔壁が、一斉に閉じ始める。
『上空に多数の生体反応!』
職員の叫びが、館内放送へ混じる。
『ハーピィ、キュマイラ……! ッ! ドラゴノイド!? ――識別不能個体、多数!』
窓の外を見る。
薄桃色の空。
私の瘴気を押し分けて。
黒い翼が、空を埋めていた。