26 星を保つ死の瘴気
第二十六話 星を保つ死の瘴気
薄桃色の瘴気が、星の血管へ入った。
最初に触れたのは、処刑場の床を走る細い管だった。
ノワルミアへマナを運ぶ。
傷を移す。
痛みを分ける。
遠くの誰かから生命を徴収する。
用途ごとに枝分かれしながら、全ての管が生体核へ繋がっている。
一本の接続を殺す。
切れた先で、奪われかけていた生命が行き場を失った。
今までなら、そこで終わりだった。
命令器官は死ぬ。
兵器としての機能は止まる。
けれど、エグジラから生命維持まで与えられていた身体は、自分だけで呼吸を続けられない。
自由になった直後に死ぬ。
それでは救出ではない。
私は瘴気の中へ、もう一つの流れを作る。
奪われた生命を、来た道へ戻す。
遠くで、弱っていた心臓が打った。
一度。
間を置いて、もう一度。
ノワルミアに合わせた鼓動ではない。その人の肺が空気を求め、その人の神経が身体を動かすために刻んだ速さだった。
「返した」
声に出す。
ピュリファイアが白い障壁を支えたまま、こちらを見た。
「何をですの」
「命」
「お姉様が与えたのですか」
「違う」
そこは間違えたくなかった。
「最初から、あの人のもの」
◆
ノワルミアの槍が白い障壁へ突き刺さった。
花弁状の層が三枚割れる。ピュリファイアは後ろへ滑りながら、残った障壁を斜めに傾けた。
槍が逸れ、天井へ入る。
エグジラの構造が裂けた瞬間、何十もの心拍へ痛みが走った。
まだ、損傷転送は生きている。
「お姉様、どれほど必要ですの」
「分からない」
「困りましたわね」
「ごめん」
「謝罪ではなく、見積もりをお願いしています」
ピュリファイアの呼吸は乱れている。
白い衣装の袖は裂け、青い瞳からも余裕が消えていた。それでも、声だけはいつもと変わらない。
「じゃあ、少し長く」
「承知しました」
ノワルミアが二本目の槍を作る。
「何をしておる」
笑みが消えていた。
私の瘴気が、自分の星へ入り込んだことに気づいている。
「妾の接続へ触れるな」
「嫌よ」
「それは妾のものじゃ!」
「だから、返してる」
瘴気を次の管へ流す。
隷属命令を運ぶ神経束。
死なせる。
その下には、呼吸をエグジラの周期へ合わせる補助信号があった。命令だけを断てば、肺が次の収縮を忘れる。
奪われた自律信号を探す。
あった。
ノワルミアへ向かう流れから引き戻し、本人の神経へ返す。
遠くで誰かが咳き込んだ。
苦しそうに空気を吐き、そのあと自分で吸う。
接続は切れた。
呼吸は残った。
次。
再生を徴収する管。
異常増殖を命じる部分だけを死なせ、傷を塞ぐために動いていた細胞へ、それ以上増えなくてよいと教える。
次。
痛覚を共有する回路。
分散させられていた痛みを、元の身体へ戻す。誰かが右脚を押さえて悲鳴を上げた。痛む場所が分かれば、助けを呼べる。痛みまで奪う必要はない。
「やめよ!」
ノワルミアが槍を投げる。
今度はピュリファイアではなく、床へ向けて。
私の瘴気が入った血管ごと破壊するつもりだ。
白い火が槍へ絡みつく。
指向性を焼かれた赤紫のマナが散る。その一部が床へ落ちる前に、ピュリファイアは接地障壁を重ね、衝撃を処刑場の外へ逃がした。
それでも、白い炎が揺らいだ。
「ピュリ」
「こちらは見ないでくださいませ」
「でも」
「あなたにしか見えないものを見て」
ピュリファイアは振り向かない。
「こちらは、わたくしが見ます」
任せる。
私は目を閉じた。
◆
夢船ピュアコットンを覆う瘴気は、一日で作ったものではない。
最初は医療区画だけだった。
眠っている子供の熱を読み、病原体の増殖だけを止める。傷を塞ぐ細胞は避け、呼吸と心拍には触れない。
次に居住区。
食堂。
空調路。
何度も失敗しかけ、そのたび範囲を狭めた。
薄く。
広く。
三年かけて、夢船の空へ定着させた。
ここは違う。
涜船エグジラの構造を知らない。
瘴気を馴染ませた時間もない。
星の反対側にいる者の顔すら見えない。
本来なら、できない。
けれど、道はすでにあった。
ノワルミアが作った。
全ての生命を自分へ繋ぎ、どこからでも命と痛みを徴収できるよう、エグジラ中へ同じ規格の接続を張り巡らせた。
中心へ向かう道は、逆にも辿れる。
所有のための網が、全員へ返すための道になる。
私は生体核から伸びる幹へ瘴気を入れた。
一本ずつ追わない。
同じ構造を持つ接続へ、同じ問いを渡す。
これは、その身体が自分で生きるために必要か。
必要なら残す。
これは、ノワルミアへ従わせるために追加されたか。
そうなら殺す。
これは、切断後に本人へ戻せるものか。
戻せるなら、行き先を反転させる。
死と生。
別々の命令ではない。
一つの問いへ、二つの答えを同時に出す。
薄桃色の瘴気が、処刑場を越えた。
中央塔へ。
培養区画へ。
兵員区画へ。
外郭の砲台、孵化層、都市、保守港へ。
星の血管を逆流しながら、枝分かれしていく。
「あり得ぬ」
ノワルミアの声が遠い。
「妾の生体核を介して、妾の星へ術式を展開するなど」
「術式じゃない」
目を閉じたまま答える。
「生きてる場所を読んでるだけ」
「星ひとつをか?」
「あなたが全部繋いでくれたから」
皮肉だった。
ノワルミアが完全に所有しようとしなければ、私はこれほど早く全員へ触れられなかった。
彼女の支配が深いほど、瘴気は遠くへ届く。
◆
最初の大きな断絶は、兵員区画で起きた。
何百もの命令器官が同時に死ぬ。
武器へ変形していた腕が止まった。
背中の砲口が閉じる。
外郭へ向かっていた生体兵器が、その場で足を止めた。
倒れない。
命令器官へ奪われていたマナを、筋肉と心臓へ返している。
自分で立てる者は立った。
立てない者は座り込んだ。
目の前の敵へ襲いかかる者はいない。
通信窓に、コーポ・アレスの重装歩兵が映る。
銃を構えたまま、撃つべきか迷っている。
倒れた生体兵器の一人が、両手を床へついた。
降伏の姿勢を知っていたのか。
ただ身体を支えただけなのか。
どちらでもいい。
重装歩兵は撃たなかった。
培養区画では、兵器へ育てる命令だけが死に、生命維持液の循環が残る。外郭では、落下するワイバーンを幻想公司の障壁が受け止めた。保守港では、救助された実験体の首輪が沈黙する。
全てがうまくいくわけではない。
長く奪われすぎた身体は、返された生命をすぐには使えない。心拍が乱れ、呼吸が止まりかける者もいる。
瘴気で代わりに生かせば、支配する者がノワルミアから私へ変わるだけだ。私は呼吸を作らない。
本人の神経が次の一息を出すまで、奪われた信号を正しい場所へ戻す。
心臓を動かさない。
ノワルミアへ流れていた血とマナを返し、その身体自身が打つのを待つ。
一拍。
長い間。
もう一拍。
遅くても、自分の鼓動だった。
「違う」
ノワルミアの声が震える。
「妾が生かしておる。妾との接続なくして動けるはずがない」
「本当に?」
瘴気が、さらに深く入る。
「生きるためのものを奪って、返す量を決めてただけ」
「妾が与えた!」
「元から、その人たちのものよ」
星中の徴収線が反転する。
ノワルミアへ集まっていた生命が、持ち主へ戻っていく。
◆
生体核が脈打った。
赤紫の障壁が大きく膨らみ、瘴気を押し返そうとする。
接続の先にいる者たちから、さらに生命を奪う命令が走った。
最後の徴収。
全員を殺してでも、自分の障壁を維持するつもりだ。
「させない」
命令を追う。
速い。
星全体へ同時に走っている。
一本ずつでは間に合わない。
でも、送り主は一つ。
生体核の中心。
ノワルミアの所有宣言を、命令へ変換している器官。
そこへ死を流す。
赤紫の障壁が私の瘴気を噛む。
数億もの生命を重ねた膜。
正面から殺せば、全員を巻き込む。
避ける。
心拍を避ける。
呼吸を避ける。
再生を避ける。
命令だけを見る。
三年前の手術台で、私の神経へ入れられたもの。
サキュバス大隊が刺激したもの。
此希の首輪に流れていたもの。
停止。
服従。
帰還。
他人の身体へ、自分の意思より先に答えを入れる構造。
それだけを死なせる。
薄桃色の瘴気が、赤紫の膜を通り抜けた。
生体核の中心へ届く。
所有命令が死んだ。
音はしなかった。
代わりに、星中で息を吸う音がした。
数億人分。
同じ時刻に。
それぞれの速さで。
ノワルミアの背中から伸びていた管が、一斉に色を失う。
一本。
二本。
数え切れない管が、床へ落ちた。
生体核の障壁が薄くなる。
ノワルミアが手を伸ばした。
「戻れ」
誰も戻らない。
「妾へ返せ」
返すものはない。
全部、持ち主へ戻した。
◆
目を開ける。
処刑場は薄桃色の霧に満ちていた。
夢船ピュアコットンの空にあるものと、同じ色。
でも、同じ瘴気ではない。
あちらでは、病を遠ざけ、傷つくものを避けながら、長い時間をかけて守っていた。
ここでは、支配を殺し、奪われた生命を返し、本人が自分で生きるところまで待った。
守るだけではない。
解放する瘴気。
【星を保つ死の瘴気】。
新しい名前ではない。
三年前から、私が自分を生かすために使ってきた力。
夢船で誰かを病から守るために広げた力。
外郭で命令器官だけを殺した力。
同じものが、もう一段深くなった。
ピュリファイアの白い障壁が消える。
彼女は膝をつきかけ、すぐに姿勢を戻した。
「終わりまして?」
「うん」
「では」
青い瞳が、私の向こうを見る。
「最後の一人ですわね」
ノワルミアが生体核の前に立っている。
もう背中に管はない。
幼い姿。
赤紫のドレス。
白い肌。
星ひとつ分の盾だけが消えた。
弱くなったとは思わない。
あの身体だけで、私を一度捕らえた。
百年以上、自分の力で支配者の座にいた。
ノワルミアは俯いている。
足元へ落ちた管を見ていた。
やがて顔を上げる。
赤紫の瞳に、もう余裕はない。
怒りだけがある。
「貴様」
声は壁から響かなかった。
一人分の喉から出た声だった。
「妾から、全てを奪うたな」
「さっきから、うるさいな」
薄桃色の片翼を開く。
瘴気が足元へ集まり、処刑場の割れた床から私の身体を持ち上げた。
「あなたが奪ってたものを、返しただけ」
ノワルミアの前へ降りる。
今度は、私と彼女の間に誰もいない。