06 密偵ルノフェット
第六話 密偵ルノフェット
涜船エグジラへ潜入して、十九日目。ボクは食堂の床を磨いていた。
洗浄機を押し、黒ずんだ床へ薬液を伸ばしていく。エグジラの内部はどこも生温かく、湿っている。
装甲の内側に都市を作ったというより、巨大な生物の腹へ工場と居住区を埋め込んだような場所だった。食堂も例外ではない。
壁の奥では消化管に似た資源搬送路が蠢き、天井から下がる送風口は、ときどき呼吸するように開閉する。
それさえ気にしなければ、机と椅子が並ぶ普通の社員食堂に見えなくもなかった。
朝の混雑は過ぎ、残っているのは夜勤明けの研究員と、食べる行為を命じられた生体兵器だけだ。
研究員は端末を眺めながら栄養食を口へ運び、生体兵器は味も分からない様子で同じ動作を繰り返している。
誰も清掃員を見ないので、とても助かる。
紺色の作業着に白いエプロン。頭のうさみみは髪の中へ折り畳み、作業帽で隠している。
メイド服のほうが好みだけど、仕事に趣味を持ち込むほど子供ではない。
「清掃三七号」
呼ばれた。洗浄機を止め、愛想よく振り返る。
「はい。何でしょう?」
「こぼした。片づけろ」
研究員の足元に、黒い液体が広がっていた。
食事ではない。小さな培養容器が割れて、中に入っていた眼球のようなものが床を転がっている。研究員は拾おうともしなかった。
「かしこまりました」
手袋を替え、液体を吸収材で囲う。眼球を専用容器へ戻すと、青い瞳がこちらを向いた。瞬きをする。まだ生きていた。
「廃棄区画へ運べ」
「管理番号をお願いします」
「知らん。失敗作だ」
研究員は席を立ち、こちらを見ないまま食堂から出ていった。
ボクは容器の蓋を閉める。
ここでは、名前より番号のほうが大切だ。
番号がなければ、帳簿に載らない。
帳簿に載らなければ、壊しても、捨てても、誰も困らない。
潜入中に助けた実験体は、まだ一人もいなかった。助けられなかった数なら、覚えていない。
覚えれば、顔に出る。密偵が見ていいのは、救出作戦へ繋がる情報だけだ。そう教わった。
「……ごめんね」
容器へ聞こえないよう、小さく言う。返却棚へ置き、清掃を再開した。
◆
潜入時に与えられた任務は、三つ。
涜船エグジラの防衛網を調べること。
軍用宇宙港から中枢へ至る経路を確保すること。
そして、コーポ・アレスの侵攻時に内側から門を開けること。
――誘拐された子供を探せ、という指示はなかった。当然だ。
十九日前、黑入鹿いおどは夢船ピュアコットンで、師匠の料理を食べていたはずなのだから。
廃棄物処理区画へ入り、周囲を確認する。監視端末は三台。
二台は本物で、残る一台はボクが十四日前に映像を差し替えた。
清掃用具を棚へ戻すふりをして、奥板を外す。中に、薄い通信端末。
毎日同じ時刻に起動し、コーポ・アレスから送られた暗号文を一度だけ表示する。
読み終われば記録は消え、次の通信時刻まで二度と動かない。
今日は、定期報告の日ではない。それでも端末は点灯していた。緊急更新。親指を認証部へ置く。
“作戦目標変更”
表示された映像を見て、呼吸が止まった。
破壊された夢船ピュアコットンの外殻を背景に、オブリビオンの輸送艇へ小さな子供が運び込まれている。巫女服に黒い髪。黑入鹿いおどだった。
会ったことはない。それでも、どんな子供かは知っていた。共同作戦に備え、アレスと幻想公司の間で共有された人物資料を読んでいたからだ。
カワイイスパイスの弟子。
孤児院から引き取られ、彼女が大切に育てている子供。
戦略級の【特異】保持者と、その保護対象に関する資料だ。食事、勉強、健康状態まで細かな記録が残っていた。保護と人質化対策のためとはいえ、読んでいるうちに、保護者の育児日誌を覗いているような気分になった。
いおどの保護者は、死と瘴気の魔女、元魔法少女、戦略級の【特異】保持者として記録されている。
そんな肩書きより、弟子の苦手な食べ物を欄外へ書き足した人物のほうが、ボクにはよく分かる。彼女とも会ったことはないけれど、どう見ても真面目な母親だ。本人へ言ったら、たぶん怒る。
“最優先目標を黑入鹿いおどの所在特定へ変更”
“生命維持装置への外部干渉を禁止”
“救出経路を確保し、待機せよ”
待機。嫌いな言葉だ。
“カワイイスパイスが単独でエグジラへ向かっている”
もっと嫌な情報が続いた。
「やっぱり来るんだ」
来ないわけがない。彼女はいおどの師匠で、保護者で、オブリビオンへ深い恨みを持つ当事者だ。
問題は、カワイイスパイスが強すぎることだった。
弱ければ誰かの助けを待つが、強ければ自分一人を使い潰せば何とかなると思ってしまう。厄介な人だ。ボクが言えたことではないけど。
暗号文の最後に、受領確認の欄がある。
“遂行可能”
“遂行困難”
“撤退要請”
最初を選ぶ。端末が沈黙する前に、追加命令が表示された。
“補給庫乙七へ移動。特別装備を受領せよ”
“包絡弾三発を許可”
“第三弾を使用した時点で任務を終了し、帰還せよ”
「三発も?」
大盤振る舞いだ。
包絡弾は、弾丸と世界の接触条件を一発ごとに組み上げる。高価で、事故が多く、潜入任務へ気軽に持たせる装備ではない。
アレスは本気だ。戦争を始める気でいる。そして、ボクを帰す気もあるらしい。最後の点については、あまり信用していない。
◆
補給庫乙七は、食堂から六区画離れている。
作業帽を脱ぎ、エプロンを廃棄口へ入れた。
紺色の作業着も裏返すと、黒い潜入服へ変わる。
薄い装甲材を織り込んだ、コーポ・アレスの偵察兵用装備だ。
頭を振る。
押し込めていたうさみみが立ち上がった。やっと楽になった。
耳は飾りではない。音源の位置、空気の流れ、マナ振動を拾うための生体感覚器官で、壁の向こうを歩く警備員の足音も聞き分けられる。
二人。こちらへ来る。廃棄物処理区画の照明を落とし、天井の保守口へ飛びつく。腕だけで身体を持ち上げ、内部へ滑り込んだ直後、扉が開いた。
「故障か?」
「また清掃個体だろ」
警備員の声が下を通る。
ボクは腹這いで保守管を進んだ。
エグジラの内部地図は、十九日かけても一割しか埋まっていない。
通路が増殖し、古い区画が消化され、昨日までの近道が壁になる。
それでも補給庫乙七までの経路は調べてある。
医療廃棄管を抜け、換気肺を横切り、第二神経束に沿って北へ。
途中で二度、警備端末の死角へ降りる。
歩哨は殺さない。首筋へ薬針を打ち、眠らせる。
倒れた身体は物資箱の陰へ座らせ、端末へ休憩記録を残した。
十五分後に起きる。その頃には、ボクはいない。
補給庫乙七の扉には、アレスの侵入痕跡がなかった。
当たり前だ。
ここは元々、オブリビオンの秘密保管庫である。
コーポ・アレスは、内部協力者から存在だけを買った。
誰から買ったか。聞かないほうが長生きできる。
生体認証板へ、眠らせた歩哨の指を押しつける。
扉が開いた。中は狭く、冷えている。
棚には試薬と神経毒、培養前の寄生生物が並んでいた。
指定された保管箱は、最下段。
外見は医療器具。
封を切ると、見慣れた無骨な金属が現れた。
両腕へ装着するアームブレード。
踵から脛に固定する、小型ジェットユニット。
腰のホルスターへ収まる短銃。
そして、赤い緩衝材へ一本ずつ埋められた三発の包絡弾。
弾底の刻印を読む。一発目、反包絡。二発目、貫通。三発目、遅延復相。
最後の弾だけ、薬莢に黒い線が巻かれている。
間違えるな、という意味だ。
撃つ場所を誤れば、隔壁も、人間も、見た目よりずっと酷い壊れ方をする。
三発を専用ケースへ収め、腰の後ろへ固定する。通常弾倉も確認。薬針、十二。実体弾、二十四。
アームブレードを展開する。
前腕に沿って、黒い刃が伸びた。
マナ剣ではない。質量のある金属だ。
近すぎる距離では、飛ぶほど加速する魔弾より、最初から速い刃物のほうが強い。
コーポ・アレスらしい考え方で、ボクも気に入っている。
「帰る準備は、できたかな」
小声で言う。残弾を数える。三発。帰るつもりで数えた。
◆
いおどが運び込まれたのは、研究区画ではなかった。
輸送記録を盗み見たところ、搬送艇は中央塔へ向かったあと、途中で識別情報を四つに分けている。
同じ生体署名を持つ収容記録が、東西南北の区画へ一件ずつ作られていた。
露骨な偽装だ。
どれか一つが本物とは限らない。四つとも偽物で、本物は記録外という可能性もある。
端末から離れ、人気のない連絡路を歩く。
ここから先は、清掃員の権限では入れない。黒い潜入服の表面へ周囲の色を読み込ませ、輪郭をぼかす。
完全には消えない。立ち止まれば壁に見える程度だ。十分。
中央塔から東区画へ続く通路へ入り、搬送部隊の痕跡を探す。
床には複数の車輪跡と、消毒薬の匂い。
右壁へ一度ぶつかり、塗膜が剥がれている。
急いでいた。誘拐直後だから当然、と考えかけてやめる。
ここはエグジラだ。子供一人を運ぶために、職員が慌てる場所ではない。何かから逃げていた。
遠くで、低い振動が伝わってきた。砲撃ではない。もっと連続している。警報が鳴る。
『外郭第九迎撃圏へ侵入者』
『単独個体。幻想公司識別』
『死と瘴気の魔女を確認』
来た。カワイイスパイスだ。
通路の照明が赤へ変わり、兵士たちが外郭方面へ走っていく。
壁の孵化槽からも生体兵器が次々と這い出し、エグジラの戦力が彼女一人へ吸い寄せられていた。
こちらにとっては好機だが、同時に時間切れのタイマーが動き出す。
カワイイスパイスが暴れている間に、いおどを見つける。
できなければ、彼女はさらに奥へ入り、予定通り捕まる。
その「予定通り」という部分が、どうにも気に入らない。
ボクは東区画へ向かう兵士の列を避け、反対側の保守扉へ入った。
扉の先から足音が一つ聞こえる。軽く、軍靴のものではない。
一定の間隔で金属が革へ触れている。銃を下げた人間だ。
壁へ身体を寄せ、迷彩出力を上げる。
現れたのは、日焼けした肌にヘーゼルの髪を持つ女だった。
長いポニーテールが歩調に合わせて揺れ、右腿には大型のリボルバーが収まっている。
制服はオブリビオンのものだが、首元に識別番号がない。代わりに黒い首輪から細い管が背中へ伸びていた。
兵士ではなく、実験体。
彼女がボクの前を通り過ぎる。呼吸を止めて待つうち、一歩、二歩と距離が開いた。
迷彩は乱れておらず、視線も合っていない。このままやり過ごせる。
そう判断した瞬間、女の足が止まった。
右手がリボルバーのグリップへ添えられる。彼女はゆっくりと、ボクの潜む壁を振り返った。